黒田さんの恋愛記録

東京在住アラサーOLが過去の恋愛の記憶をもとに恋愛物語を書きます。

最初の恋愛6

春休み前の終業式の日。高校2年生最後の登校日。そして、H先生の特別授業が受けられる、最後の日。

その放課後、私はいつもの職員室前の自習机が満席だったので、空き教室で一人勉強をしていた。H先生は、他の生徒の指導中だったので、自分がいる場所だけ告げて、静かに数式を解きながら、その時を待っていた。

「黒田さん、お待たせ」

午後の明るい日差しに包まれた教室に先生が現れた。

「待ってたよ、先生」

普段と同じように、先生が難問の解き方を教えてくれる。一枚、また一枚と手書きプリントが増えていく。私のバインダーのプリントはもう何枚になっただろう。初めて先生に教えてもらったあの秋の日から。先生が描くグラフ、三角形、放物線。そのどれもがきっちりと正確で美しかった。的確なコメント、眼鏡越しに見える、大きくはないが優しい目元。

最後の問題が終わった。

「これで、終わりだね、先生」

少し埃っぽい教室に沈黙が訪れる。

私はこの日決心していた。最後に先生にこの想いを伝えることを。最後の特別授業の後に、先生と会えなくなる前に、必ず。

でも、いくら待っても、声が出ない。普段は言葉が溢れ出すように、夢中で先生に話ができるのに。

先生が立ち上がった。

「お疲れ様。3年生になっても、勉強しっかり頑張ってね」

「…先生、メールアドレス教えてください…」

やっとの事で出てきた言葉だった。

ひと息ついて、先生がプリントの裏にメールアドレスを丁寧に記した。

「辛くなったらいつでも連絡してきていいから」

「ありがとう、先生…」

そうして、H先生は私の前からいなくなった。ありったけの想いも、口に出さなければ心の中でただ虚しく響くだけ。プリントを握り締めた手は震えていた。

高校2年生の短い恋が終わりを迎えた…ように思えた。

 

最初の恋愛5

「私は、H先生のことが好きだ。」その頃の私は、そう確信し始めていた。「先生にもっと会いたい、もっと話したい。知らないことを教えてほしい。」私の毎日は、先生への想いでいっぱいになっていた。でも、それは「普通の恋愛」じゃないともわかっていた。先生と生徒の恋なんて、少女漫画でしか見たことない。想いが叶って恋人同士になるなんて夢のまた夢。

 

3月。高校2年生最後の月。来月からの教師の人事についてのお知らせが告げられた。

「H先生は、正式に教職員採用試験に合格されたので、4月から県内の別の高校に異動されます」

・・・

私は、何かに頭を殴られたように衝撃を受けた。そんなの、知らなかった。H先生が学校からいなくなる…。そんなの、信じられない。

私の毎日の中心となっていたH先生が、いなくなる。何を楽しみに、何を支えに生きていけばいいのかわからない。そこまで、H先生への気持ちが大きくなっていたことに改めて気づいた。

そして、私は決断をする。

最初の恋愛4

H先生に会えない冬休みは退屈だ。早く学校が始まればいいのに、そう思いながら日々を過ごしていた。部活もしていなかった私は、毎日気乗りしない塾に通っていた。通信授業をテレビで見るだけで、特に面白くもない時間。「H先生が教えてくれればもっと楽しいのになあ」と、気づけばH先生のことばかり考えていた。「今、何してるんだろう?」「学校には出勤してるのかな?」「どんな家に住んでるんだろう?」「休みの日は何してるのかな?」そんなことをぐるぐる考えて、妄想を膨らましていた。

「先生に会いたいなあ」

そう思いながら、塾へ自転車を走らせていたとき「プップー」とクラクションが聞こえた。急な音に驚いた私は一瞬自転車を止めた。すると、目に入ったのは、あの紺色のミニバン。

「スリッパ、忘れてたでしょ、はい」

運転席の窓から、H先生が私のスリッパの入った袋を差し出した。まさか、出会えるとは思ってなかった私は動揺とうれしさですぐに反応できなかった。一呼吸おいて、運転席の窓に近づくと、スリッパを受け取り「先生、なんで?どうしてここにいるの?」と聞いた。

「バスケ部の試合に向かってる途中なんだけど、偶然見たことある人がいると思ってね。びっくりしたけど、忘れ物渡せてよかったよ。」

「そ、そうなんだ。私もびっくりした。とりあえず、スリッパありがとうございます。試合がんばってください!」

「自分が、試合するわけじゃあないけどね。ありがとう。また、学校でね」

ただの偶然だったのかもしれない。でも、毎日想っている人と予期しないところでばったり出会うことができた。これは、もしや、運命というやつなのかも。

私の高校2年生の冬は、H先生一色に染まっていた。

待ちきれなかった新学期が始まり、またH先生との特別授業が再開された。冬の石油ストーブとコーヒーのにおいで満たされた、職員室。冷たく、寒い職員室前の自習机とふわふわのひざ掛け。すぐに冷たくなるホッカイロ。先生との日々が続くことを信じて疑わなかった私に、衝撃が走ったのは春のにおいを感じ始めた3月だった。

最初の恋愛3

12月、冬休み前の終業式の日の放課後、いつものようにH先生に数学を教えてもらっていた。気づけば20時。辺りは暗く、職員室には私とH先生しかいなくなっていた。

「あー、もうこんなに暗くなってる!20時だ!先生遅くまですみません。もう帰らないと。」

外を見ると、ちらちらと雪が降り始めていた。当時、自転車通学をしていた私は帰り道の寒さのことを考えるとどんよりとした気分になった。

「うわー、雪だ。帰りのチャリ絶対寒いわー…。」

「寒いんだったら、スカートの丈のばせば?」

「それとこれとは関係ないの!ジャージはいて帰るし!」

ミニスカ絶対主義の女子高生としては譲れないところだ。

「じゃあ、帰るね!先生、今年は本当にありがとうございました。先生のおかげで数学が楽しくなったよ。良いお年を。」

そういって、立ち上がった。

 

「もうちょっと待てるなら送ってくけど」

 

・・・え?今なんと?

 

「え、先生送ってくれるの?車で?」

「うん、黒田さんちの方向、帰り道だからね。もう暗いから心配だし。」

「は、はい…じゃあ、お願いします。ありがとうございます…。」

 

それまで、職員室でしか話したことのない先生。その先生が自分の車に私を乗せてくれるということは、とてもドキドキすることだった。学校ではない、先生のプライベートという未知の世界に踏み込むような気持ちだった。

帰り支度をして、職員昇降口のところで待っていると、先生が降りてきた。施錠をすると二人で駐車場へ歩いていく。息が白い。先生の後ろを小走りでついていく。なんだかいけないことをしているような緊張感と寒さで頬が上気する。

先生の車は紺色のミニバン。副顧問をしているバスケ部の遠征にも使えるようにと大き目の車を選んだと言っていた。

「はい、乗って」

そういわれて少し躊躇した私は、後部座席に乗り込んだ。なんだか、助手席は特別なような気がした。

帰りの車の中、先生が音楽をかけた。聞き覚えのあるイントロが流れる。

「先生、ミスチルが好きなの?」

「うん、好きだよ。アルバムも全部持ってるよ」

また一つ、私しか知らない先生が増えた。

乗っていた時間は15分程度だったと思う。この、いつもと違うプライベートな先生との時間がうれしかった私はたくさんしゃべり、先生も楽しそうにそれを聞いてくれていた。あっという間の帰り道だった。

家の近くで、車を止めてもらい降りる。

「先生、送ってくれてありがとうございました。運転気を付けてね。また、年明けからよろしくお願いします」

「うん、じゃあ、また来年ね。おやすみ」

 

先生に会えない、2週間の冬休みが始まる。さみしい気持ちでいっぱいだったけど、最後に最高のサプライズをもらった私は幸せな気持ちで玄関のドアを開けた。

「…あ、先生の車に忘れ物しちゃった」

当時、教師とメールやLINEをするような時代でもなかったので学校で話す以外に連絡手段はなかった。しかも、忘れたのは上履き用のスリッパ。

「ま、年明けでいっか」

この忘れ物で、また先生への想いを強くする出来事が起きるなんて思ってもみなかった。

 

最初の恋愛2

初めて、H先生に数学を教えてもらって以来、私は毎日のように放課後職員室に通った。H先生とのマンツーマンの特別授業は長い時は2、3時間に及んだ。教科書の問題を一つ一つ丁寧にプリントの裏に図を描きながら教えてくれる。周りの生徒が言う「冷酷で怖い」先生はそこにはいなかった。たまに冗談を交えながら、優しくわかりやすく教えてくれる先生に対して、私は尊敬の念を抱き始めた。毎日増えていく、先生の手書きのプリント。それが私にとって、世の中のどの参考書よりも素晴らしいものになった。

私の数学の成績は、めきめきと上がっていった。それまで90点台が取れればよい方だったが、100点満点を続けて取るようになるまでになっていた。良い点を取ると、先生が自分のことのように喜び、褒めてくれる。それを見ると、次ももっと頑張ろうと思う。とても良い循環となっていた。

 

普段の数学の授業は別の先生が担当のため、H先生と話すことはない。放課後の特別授業だけがH先生と話す唯一の時間。「ほかの生徒が知らない、優しくて面白い先生」を私だけが知っている、という優越感を持ち始めていた。

「黒田さんは、大学受験はどうするの?」

「私は、東京の大学に行きたいなあ。こんな田舎じゃなくて、都会で自分の力を試してみたいって思うよ。先生は、どうして数学の先生になったの?大学院まで数学科なんて学者にもなれたんじゃないの?」

「学者になろうと思ったけど、世の中には自分よりも優秀な人がたくさんいて、自分は学者は無理だなって思ったんだ。でも、数学は好きだから、その楽しさを伝えたいと思ったから教師になったんだよ。」

勉強の合間に話す何気ない話題。それで、私はどんどんH先生という人物のことを知り、もっと知りたくなっていた。同じ年代の男の子と話すより数倍楽しく、大人の世界に自分が足を踏み入れているような、そんな感覚を抱いていた。

そんなH先生との特別授業を続けていた、ある冬の日。先生への感情が一気に変わる出来事が起こった。

最初の恋愛1

高校生のころ、私の最初の恋愛が始まった。

 

県内の進学校に進んだ私は、学年の成績はいつも1番か2番を取っているくらいガリ勉だった。高校2年生の秋、その日もいつものように、放課後職員室に向かう。一番苦手としていた数学について担当教員に質問するためだ。クラスメイトと職員室に入ると、担当教員が不在。でも、テストに向けてどうしてもクリアしておきたい問題があった。

「ねえ、H先生に聞けば?今、空いてそうだし。」

どうしようかと困っていた私に、クラスメイトが言った。これがすべての始まりだった。

H先生は、臨時採用の数学教員で年齢は当時27歳。ほかのクラスを担当していたので、教えてもらったことも話したこともない。さらに悪いことに、生徒からの評判がとにかく悪かった。「冷たい」「面白くない」「気取っている」…。

「え、怖そうだからやだよ…。」と言ったものの、ガリ勉の私は背に腹は代えられないと思い、しぶしぶH先生に話しかけることにした。

「すみません…7組の黒田ですが、うちの担当の先生が不在なのでH先生に数学で教えていただきたい問題があるので聞いてもいいですか?」

「もちろん、喜んで」

”あれ、なんか、思ってたのと違う…”

その日から、私の職員室通いが始まる。数学を勉強するために。H先生と話すために。