最初の恋愛6
春休み前の終業式の日。高校2年生最後の登校日。そして、H先生の特別授業が受けられる、最後の日。
その放課後、私はいつもの職員室前の自習机が満席だったので、空き教室で一人勉強をしていた。H先生は、他の生徒の指導中だったので、自分がいる場所だけ告げて、静かに数式を解きながら、その時を待っていた。
「黒田さん、お待たせ」
午後の明るい日差しに包まれた教室に先生が現れた。
「待ってたよ、先生」
普段と同じように、先生が難問の解き方を教えてくれる。一枚、また一枚と手書きプリントが増えていく。私のバインダーのプリントはもう何枚になっただろう。初めて先生に教えてもらったあの秋の日から。先生が描くグラフ、三角形、放物線。そのどれもがきっちりと正確で美しかった。的確なコメント、眼鏡越しに見える、大きくはないが優しい目元。
最後の問題が終わった。
「これで、終わりだね、先生」
少し埃っぽい教室に沈黙が訪れる。
私はこの日決心していた。最後に先生にこの想いを伝えることを。最後の特別授業の後に、先生と会えなくなる前に、必ず。
でも、いくら待っても、声が出ない。普段は言葉が溢れ出すように、夢中で先生に話ができるのに。
先生が立ち上がった。
「お疲れ様。3年生になっても、勉強しっかり頑張ってね」
「…先生、メールアドレス教えてください…」
やっとの事で出てきた言葉だった。
ひと息ついて、先生がプリントの裏にメールアドレスを丁寧に記した。
「辛くなったらいつでも連絡してきていいから」
「ありがとう、先生…」
そうして、H先生は私の前からいなくなった。ありったけの想いも、口に出さなければ心の中でただ虚しく響くだけ。プリントを握り締めた手は震えていた。
高校2年生の短い恋が終わりを迎えた…ように思えた。